それぞれの音楽家は、自分の能力のすべてを使って音楽を創っている。作曲家がどういう生い立ちであるか、年齢とか、ハンディキャップがあるとか……そんな
ことはどうでもいいのです。確かにパーソナリティと作品は切り離せないけれど、パーソナリティにあまりに依存するのはよくない。そもそも、音楽は嘘をつか
ないはずです。
では、「HIROSHIMA」という作品そのものはどう評価されるべきなのか。
まず、「HIROSHIMA」がこれだけ愛されたということ、そしてこの作品を演奏したいと思った演奏家がいた──これが、真実ではないかと僕は思いま
す。どのようなシチュエーションで生まれたか、どのようなバックグラウンドがあるのか、ということは作品には本来関係がないはず。僕たちはこの作品が産声
を上げて、世の中に出て行こうとしたエネルギーに、素直に脱帽しなければいけない。
確かに、佐村河内さんと新垣さんの二人は、今後社会から葬られるかもしれません。しかし、そんなことは長い音楽の歴史に比べれば一瞬の出来事です。音楽は時代を超えて残るもの。時間が経てば、作った人がどんな人間かなんて、どうでもいいことになるはずです。
敢えて言うと、二人は、この曲を作ったことに対して堂々としてもらいたい。もちろん、社会人として責任を取らなくてはいけない部分はある。クローズアッ
プされたストーリーに嘘があるのなら、きちんと罪を償ってほしい。そのうえで、この楽曲を葬らないで済む方法を二人で考えてもらいたい。それが、世の中に
この曲を出した人間の責任だと思います。タオバオ代行
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